い き い そ が ず に

自殺対策
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い き い そ が ず に


はじめに

 日本での自殺者数は平成10年より14年連続して3万人を超えています。平成10年に前年より8千人を超える増加となり、その後高い数字に留まっています。近年、自殺者数は交通事故死者数の7倍近い人数となっており、大きな問題となっています。うつ病・家族の不和・負債。身体疾患・生活苦・職場の人間関係・職場環境の変化・失業・事業不振・過労が自殺の要因と言われています。
 アルコール問題はこのような要因と絡み合っており、アルコール依存症者は自殺のハイリスクグループと言われています。大阪府の補助を受け、大阪府断酒会は平成21年度からアルコール依存症者の自殺予防対策事業を展開しています。一瞬の激情だけではなく、将来への絶望や孤立感が、自ら命を絶つ思いを募らせるようです。
 平成22年度に全会員を対象に自殺に関わるアンケート調査を実施しました。アンケートで自殺しようと考えた事がある、自殺を試みた事があると回答され、インタビューに応じても良いと答えた方々の中から、ほぼ無作為に、手記原稿をお願いしました。
 会員、家族20人の手記が、お読み頂く皆さんが生きて行く上で、少しでも力になればと願っています。

生き続ける            (52才 男性)

 私は、ある知的障害者施設で働いておりましたが、ストレス等が原因で休職する事になり、その休職中に酒に溺れて行きました。
 7年程止めていた酒ですが、只1本の缶チューハイが翌日には、自分で朝から買いに走り、2本、3本と増え、1週間もしない内に、一升パックを1日で飲む様に急激に変化していったのです。飲み始めの時は「自分の金で飲んで何が悪い!」、そんな思いでおりました。
 友人、知人にそのうち借金までして飲む様になり、どっぷりと酒に浸った生活をする有様でした。でも、罪悪感は当初はなく、自殺願望が湧き出して来たのは2ヶ月程してからでした。3日飲み続けると最後、4日目には酒も入らなくなり、しらふに戻った時です。
 「一日も早く仕事に戻らなくてはならないのに、何してるんだ。職場の皆に迷惑かけ、自分は何を考えてるんだ」。そして、次に私を襲って来たのが、「死んだ方がましだ、死ぬしかない」という強迫観念でした。
 でも、そんな自分が嫌で、また酒を飲み続ける日々・・・。そして、それに比例して、日々増していく自殺願望・・・。 そしてついに、「死のう! 睡眠薬を飲んで死んでしまおう、それですべて丸く納まる。自分もらくになる。酒からも逃げられる」
 焼酎のグラスに、睡眠薬を落としこみ、そのまま一息に飲み干しました。その時は、死への恐怖もなく、どこかでホッとしている自分がいました。でも死ぬ事は出来ませんでした。3日目の朝、目が覚めて、生きていると思った時、己の愚かさ、酒の怖さを思い知らされ、酒の臭いをさせたまま、主治医の所に助けを求め駆け込みました。そして、専門病院に即、入院し、その中で断酒会の事を知り「そこでしか酒をやめていく道はない!」と思わされました。この5月に正式入会させて頂き、今は毎日の様に例会回りをしております。そして、その例会で先輩方々の語られる酒害体験を聴かせて頂き、自分も又、語らせて頂き、酒の怖さを再認識させて頂いております。今は、断酒会に入会して、本当に良かった・・とつくづく思わされております。
 これからも、一日一日を大切にし、断酒生活を継続していこうと強く思っております。

自死遺児からアル中へ       (64才 男性)

 私にとってこの体験談を書く事は大変苦しい作業です。
 小学校6年生の時、父は高槻の天王山の山中にて自殺をしました。犬が山中より父の手首を噛み切り里へ降りてきたのを地元の人が見つけ山中を捜索し遺体を発見して下さったとの事です。身元確認に行った次兄より聞きました。その当時の話を聞いたのは私が49歳の時です。我が家では互いにその事に触れずに来ましたが。東京から次兄が来たとき私の顔を見て「お前さん幾つになった」と聞き私が歳を言うと、お前さんもその歳(父の享年47歳)を過ぎたという事を感慨深げに想った感じで、父の遺体発見時などを教えてくれました。ある程度の事は思っておりましたが、父のその事に関してはその時一回だけ姉と共に聞かせてもらいました。
 一番苦しい思いをしたのはその損傷した遺体を確認した当時高校生だった次兄だと思います。父の死後母と4人の兄弟は、次兄は東京、母と長兄は名古屋、姉と私は大阪の伯母に引き取られました。
 伯母は中学校の教師をしており、妹の子供という事で大変な思いで私達を育ててくれたと思います。私達自身も伯母に育てて貰っているという事で互いに遠慮があった様に思われます。子供から大人になる過程には何度かの反抗期を繰り返しながら大人になって行くそうですが、私には思い当たりません。姉は勉強に頑張り学年で一番二番という優等生を目指しましたが、わたしはクラウン(道化師)というか、明るく振舞っておりました。夜自分の部屋に入ると、父はまだ生きている、何年かすると会える様な気がして空想の世界におり寝付けず、よく「子供が何時まで起きているのか」と伯母に怒られました。
 高校を卒業させてもらい仕事に就きました。初めての給料を貰った時、生活費に幾ら入れたらと相談しました。伯母は自分の為に使いなさい、私の将来の為にと言ってくれました。
 私にとっては大きな小遣いとなり、一人で大人になった様な気持ちで当たり前の様な顔をして、18歳ながらお酒の世界へ入って行きました。自分では気付きませんでしたが、不眠だった私にとって睡眠薬の様なものだったと思います。
 自分のお金の使い方、飲み方が世間の人々と違う、おかしいと気付いたのは22、3歳の頃で、ようやく伯母が自分の為にお金を使えと言ってくれた事が分かりました。
 夜間の学校へ通いだしましたが、勉強嫌いの私にはとても皆に付いていけませんでした。時間まで家に帰るわけにはいきません、結局は馴染みの飲み屋が一軒増えたという事となりました。
 そんな時名古屋の長兄よりの養子話、行き当たりばったりに養子となり結婚、今思うと相手方に大変申し訳なく思います。やはり酒が大きな問題で離婚となり、大阪へ戻りました。
 調理の仕事に就きました、私には大変都合のよい仕事でした。29歳の時身体を壊し入退院の繰り返しの生活が始まり、最後にはアルコール専門病院へ入院、その間に父と同じ事(自殺未遂)を3回繰り返しました、まだ34、5歳の頃です。やはり父の死に様が浮かび、どうせ親の子や、同じようになると自分自身思い込んでおりました。精神病院退院後、断酒会にも正式に入会しました。叔母や母の援助で一年間仕事に就かず、病院例会、断酒会と走り回り、研修会へも参加させてもらいました。一年後再就職し、その後も断酒会へ参加しながら仕事を続けました。体験談を語り続ける中で何年かすると自分自身が判って来るようになってきます。その中でわだかまって来る、腹の中に溜まって来るものが有りました。それは父の死に様でした。断酒会に入って10年過ぎた頃、京都の研修会で本当の重い(父のこと)を語るというよりぶつけました、その体験を語った事で自分の断酒が正直に言って楽になった気持ちがします。それまでうわべだけの体験談を話す自分に悩んでおりました。先輩、仲間達は手を強く握り締め、うなずきながら私の思いを受け止めて下さいました。温かい目で見守って下さった事に感謝しております。今、体験談を書いていてもその時を思い起こすと涙が出てきます。その時アル中で良かった、アルコールが無かったらもっと大きな問題にぶつかって人生において挫折していた事だろうと思います。
 10年位前となりますが、NHK「クローズアップ現代」で、あすなろ育英会が自死遺児への奨学金を出すだけではなく、グループミーティング、一泊研修会を通じ、彼らの心のケアをして下さる番組を見たとき涙を流しながら見ておりました。彼らの思いが少しでも軽くなったらと。
 私自身は断酒会を通し自己研修作業をしております。
 名古屋におりました長兄は、やはりお酒が原因で亡くなりました。東京の次兄は嫁の監督のもと、お酒を飲んでおりますが、矢張りたまらぬ気持になった時は理由をつけて外出し、一杯引っ掛けているようです。
 姉はごく普通の生活で問題はありません。
 私自身今も断酒継続させて頂いているのも正直に自分をさらけ出した、その私を受け止めて下さった多くの仲間のお蔭と感謝しております。

「涙」              (38才 女性)

 私は、12歳頃から「そう病」と「うつ病」を繰り返し、自殺未遂を数回、19歳の時、手首を深く切り、腱をつなぐ手術をし、1週間の入院、その後1ヶ月ほど、塞いでいました。 死に切れなかった思いと「鬱」も酷くお酒は勿論、タバコさえ買いに行けません。
 でも今考えると、高校生までにはビールがとても美味しく、18歳で酒屋に入社し定時で仕事が終わり毎晩のように友人、先輩達と飲み歩き、大量飲酒していました。
 だから、アルコール性の「鬱」だったのかも知れません。「鬱」が酷くなると「死にたい」それしか考えられなくなります。その事を私は誰にも言えませんでした。
  見かねた弟が、知人を連れてきてくれて、「精神科に行こうか」の一言で救われたのです。自殺を考えている人は、何処かで「助け」を求めているのは確かでしょう。その後、精神科に繋がり投薬、ベッドの空きを待って2ヶ月の入院。当時は抗うつ剤の点滴治療もあり、午前と午後の点滴で、3、4週間もすると起き上がり、他の患者さんとタバコを吸うまで回復していました。それから20年経ちますが、「躁鬱病」は治りません。お酒を飲み続けていたからです。最後は、薬とお酒が混ざって危険な状態になる等で、主治医に「今日からお酒を止めて下さい」、「その為には断酒会に行かなければなりませんよ」と。私は診察が終われば家に帰って飲むつもりでした。
 残っているアルコール類、養命酒も流して断酒が始まります。当時は大阪市内の酒害教室を週1度通う程で、3ヶ月目には嫌な出来事もあり、飲みました。その後、断酒会につれて行ってもらい、共感し現在まで飲むことはありません。入会もしましたが、1年目は飲酒欲求がかなり強く本当に苦しい断酒でした。5月に断酒2年の表彰を頂けましたが、12日に母が自殺(飛び降り)で亡くなります。これからは両親には償いと思っていた矢先でした。母も病名は違いますが、重い精神疾患で、妄想が酷く自殺未遂も数回あったそうです。なのにその事を(健常者)の父は私と弟に電話の一本もしてくれませんでした。「もう精神科は可哀想だ」と。私は納得できません。百ヶ日が終わっても、、母が飛び降りる姿を想像すると涙が、涙が止まりません。自殺未遂者だった私が、自死遺族に・・・この苦しみも他の人には味わせたくないのです。断酒をし、抗うつ剤等を飲み休養すれば生きていて良かったと思える日々が必ず来ると私は考えます。
 自殺を考える前に、身近な方に「死にたいんだ!」でも良いです。誰か一人に相談してみてください。どうかお願い致します。「涙」

感謝               (60才 女性)

 幼い頃に虐待を受け、人にも言えずに、だんだん自分の心を閉ざし生きて来た私は、うつ病になり、動けなくて、食欲もなく、死ぬことばかり考えていた時に、アルコールとの出会いがありました。そのビールは、心の扉を開いてくれ、働く事も出来るようになる、こんな素晴らしい飲み物があったのかと思い、毎日、ビールを飲む、心ウキウキと生活が楽しくて、仕事が終わるのを待ちかねて飲む。そんな日々は長く続かず、会社に行けずに、辞める事になり、朝からアルコールを飲み、飲んでは寝る、目覚めれば飲む、そんな日々を繰り返して、入院する事に。何度目かの退院の時に、アルコール専門クリニックの紹介書を貰い、1ヶ月ぐらい酒びたり、手は震え、冷汗は出る、酒が切れるとどうにもならずに、酒を飲まなければ座ることも出来なくなり、紹介書がある事に気づき、小杉クリニックに行きました。
 長い時間待たされて診察してもらい、アルコール依存症と言われましたが解らない、一生酒が飲めないなんて、自分で飲んでる酒や、自分で止めれる、私の友達を取らないでと、心の中で叫びながら、毎日通院が約2年、飲まないでいると身体の調子も良くなるにつれ、酒が飲みたい、一杯だけ、一杯だけでいいから飲みたいという思いが、頭の中に一杯になり、酒を飲んでしまい以前より大量に飲む、酒が切れると離脱で苦しむ、苦しいから酒を飲む、もう自分ではどうにもならず、死のうと思いながら酒を飲み、自殺するのですが未遂で終わり、また同じことを、酒を飲んではやってしまう。アルコールの魅力には勝てないし、生きていくのも辛い、身の置場もない、そんなときに断酒会へ入会しましたが、酒は止まらず、死にたい気持ちは消えず、苦しみました。死ねないのなら何とかしたい、そんな思いで暮らす毎日、ある日アルコール依存症者の作業所があるから、行ってみませんかと、声をかけていただき、通所する。朝のミーティングに昼のミーティング、夜は断酒会へと通う。そんな日々が1年、また1年と経つうちに、うつ病も出なくなり、酒も止まり笑う事も出来るようになりました。おまけに、今は仕事も出来るようになり、良き断友、良き仲間に囲まれて、犬と散歩しながら、死ななくて良かったと思っています。
 断友や仲間に「ありがとう」と、心の中で感謝しながら、生きています。

終着駅は始発駅          (47才 男性)

 47年前、両親が自分を産んだとき、おそらく「幸せな人生を送ってほしい」と思い、産んだと思います。ところが、実際は20才を過ぎてからアルコール依存になり入退院の繰り返し、挙句の果てには自殺未遂も4回経験というありさまでした。そして病院、断酒会でもはかばかしくなく、両親はじめ周りの人にとっては、自分の最後の賭けであった和歌山断酒道場も9年いた挙句、退場という結末で、その理由も自殺未遂を起こすということでした。 その何ヶ月か前、どうにか故郷へ帰ることができそうだという話になったのですが、結局ご破算になり、道場での生活も身が入らなく、抜け殻同然、そこへきて些細なことが理由で道場生の一部の人と仲たがいになり、道場での当番も外されるこことなり、今までの道場での生活がすべてむなしさに変わり、「もう俺は終わりだ」と思い、自殺を決行しようとして、道場の倉庫から作業用のロープを持ち出し、敷地のはずれの桜の樹へ仕掛けをして、ロープへ首を入れ、あとは座り込んだ瞬間に首が圧迫され死に至る、といったところで餌付けをして可愛がっていたネコが駆けてきて鳴かれ、そこで我に返って自殺を決行するのは止めたということでした。
 今振り返ると、本当に死ぬ気があったのか今一つ不明で、もし死ぬ気があったとしても、おそらく帰ることを許可してくれなかった両親や、自分に冷遇をした道場生へのあてつけという気持ちの方が大きかったのでは、と思われる気がします。
 結局、そのまま新生会病院へ入院、道場もそのまま退場、故郷へ帰る話どころではなく道場長や和気大先生からも、「お父さんやお母さんが可哀想だからこっちで生活することを考えろ」と言われました。当時の自分は、かなり荒んだ感情が残っており、「一番かわいそうなのは自分なのに、何で俺ばかり・・・」という気持ちでした。
 結局、新生会病院退院後は現在の地に住むことになり4年以上が経とうとしています。
 道場で生活している時に自分のことを心配してくれ、1ヶ月に1度便りをくれた母親からは1通の便りもない状態ですが、不思議と恨みや憎しみの気持ちは軽減されています。おそらく今になって、「俺が可哀想だったら、自分の酒害で長年苦しんだ両親や周りの人は可哀想では済まない」という気持ちに変わったのと、結局見知らぬ人ばかりの地で生活する酒害者の自分にとっては断酒会しか行くところが無かったのですが、毎日行けるほど、不自由はなく、周りの方とも何とかいい付き合いをさせて頂いていることだろうと思います。思い通りにならないこともあり、いいことばかりでも無いですが、今回生き残ったことをきっかけにして、自分なりにいい人生を送れれば・・・と思います。
 ありがとうございました。

自殺の試み            (55才 男性)

 私は、10代の頃より酒を飲んでいました。しかし20代、30代の頃の飲み方と40代、50代の飲み方は相当変わってきていました。
 後半の4、50代では、仕事、親の介護、その他いろんなストレスを抱えきれなくなってきておった自分であったように思います。この10年ぐらいはやはり自転車に乗ってもこけたりしました。あの、自転車に乗った自分がもろとも倒れていく瞬間というものは、何かスローモーションでゆっくりでした。
 地面に横たわっている自分は、ゆっくりとまず腕が動くかどうかを確認していました。そしておもむろに肩や頭、そして足のくるぶしなどを撫でながら、それらの部分がちゃんと繋がっているかどうかを確かめます、痛さは感じません。頬のあたりを撫でるとぬるっとします。眼鏡のガラスで顔を何回彫って彫刻したかわかりません。
 仕事が終わったあと五合パックのラッパ飲み、夏場暑いとき会社を出たあと近くの自動販売機。家に帰って、ちょっと気分が高揚している時などは、電話機の前に缶ビール5、6本並べて電話帳片手に、片っ端から愚痴の電話をかけまくる。喋りまくった挙句に乾ききった喉が、どれほど缶ビールの苦さを喜んだことか。
 とにかく今日一日は何とか終わった。すえた煎餅布団にごろんと横たわり、肘を立て、食道に流し込む焼酎。
 心がよれよれになった時、ウィスキー角瓶の流し込み。これはまた良かった。たとえ瞬間的にであれ現実を忘れさせてくれたからウィスキーは性格によく合った。あっという間に脳髄にアルコールがスコーンと染みこみ、現実の自分から即座に解放してくれ、虚脱の空間へ自分を導いてくれた。
 さて、本題の自殺欲求についてです。私の10代、20代の頃の自殺に対する欲求とそれ以降の時代の欲求は、何か本質的な中身が違ってきていたように思います。若い頃のそれは、ほんとに衝動的で、睡眠導入剤のようなものを一気に瓶ごと飲んだことがあります。
 しかし、後半の4、50代ではウィスキー、ラッパ飲みで「ああ、これで俺はこの世から消え失せることが出来る。よーし、さあ流し込むぞ・・・」。経験者はご承知だと思いますが、まぶたを閉じたほんの数秒間の静かな開放の世界。単に瞬間気を失っただけか、それともほんの少々眠りの世界に入る事が出来ただけか。
 目が覚めた時、じゅくじゅくの煎餅布団の上に横たわっている現実を確認し、死のうと思ったが、死ねなかった自分に対する悔しさや憐憫。
 実は、断酒会の皆様はほとんどの方は、やり方、手法は別にしても、いずれにしても一度は「自殺試し」は経験の筈ではなかろうかと思います。
 さて、今はなんとか大きな波もなく、断酒会に入会してなんとか無事に過ごさせていただいております。これもひとえに断酒会に参加させていただき、皆様方の酒害の体験をお聴きすることにより、また自身が思い起こし掘り起こすことにより、飲酒の欲求から遠ざかることが何とかできております。
 これからも一杯の酒に手を出さない自分でありたいと願うものであります。

生きてていいんだ         (73才 女性)

 いつも浮ついた生き方をしていた。夫とは同棲生活から夫21才、私18才。二畳半の小さなアパートの一室で、布団シングルを一組敷いて。小さなタンスと水屋、テレビ、ままごとのような日々で、充分幸せでした。夫の給料だけで、私は働きもしないで・・・。
 その頃から私はわがままで、夫に叱られても反省するどころか反発し、自分が間違っていると分かっていても謝ることをしなかった。息子、娘を育てていても、仕事をしていても、どこか一本筋が抜けていました。心の中にはいつも不平不満が一杯で、夫にぶつけ、子供に当たり散らして最悪の状態でした。もともと夫はやさしくおとなしい人で、私のわがままに手を焼いていて、浮気もし、仕事も行き詰まり、お酒に逃げ、問題も起きています。
 今だから分かるのですが、私のわがままは極度で病気ではないと。当時夫に連れられて行った精神、神経科の先生から、薬は精神安定剤を処方されました。家族だけに留まらず、ちょっとした事で、酔っ払いと喧嘩し、相手に怪我をさせたり、夫に怪我をさせたり、子供にも、しつけと言いつつ殴る蹴るの暴力をふるう私、自分の精神が壊れていくのが感じられて、とても恐ろしくて、怒りが収まると、自分を責めて落ち込む、そんな事の繰り返し、いつしか自分を消してしまいたい、死にたい、自殺しようと思うようになっていました。
 小さなノートに遺書を書いて、死に場所を探して、うろうろした夜。仕事に行き詰まり、酒の量が増えていく夫。借金も出来て、家庭は嵐の真最中です。アルコール依存症と診断を下された夫と断酒会に行きました。素直な気持ちで例会に通ううちに、自分を変える事が出来るかも知れないと思いました。例会の中で自分を省みる日々が、1年2年と続くうち、心が穏やかになり、自分を認める事で生きていけそうな気がしてきました。
 たくさんの人の温かい気持ちを戴いて、少しでも、自分が変わる事が出来た事を感謝して、これからの人生を大切にしたいと思います。

心の中              (49才 女性)

 自覚できる飲酒欲求があった訳ではない。「まあいいか、一杯くらい」友人の誕生日会の席でのことだった。夜景の見える静かなレストランでカクテルを一杯飲んだ。罪悪感や後悔の念はこの時湧かず、その日はその一杯で止まった。 
 「もしかしてアル中ちゃうかも?」という思いがよぎった。この辺りがまさにアル中である。それからもしばらくは我慢することなく飲まずにいられた。次に飲んだのはそれから3ヶ月程してから。会社の上司に対する身勝手な怒りを理由に焼酎のワンカップをあおる。「こないだ大丈夫やったし」と自分に言い訳をしていた。
 今度は大丈夫ではなかった。すぐに間隔は狭まり、量は増え制御不能となった。またたく間に周囲に気づかれ休職を余儀なくされる。中途半端な知識がついている故、落ち込みも大きく、酒の虜となった。
 酒を買いに行く以外、外に出ることはなくなり、昼夜なくエヅいて目覚めては枕元の酒を流し込んだ。声を出して泣いていることもあったが、何で泣いているのか分らなかった。家人は何か言っていたが、そのうち何も言わなくなった。自由だと思った。気づくと床ずれが出来ていた。止めたいのか止めたくないのか解らなくなっていた。いずれにしても希望がなかった。「このまま死ぬんかなあ」、「こんなはずじゃない、こんなことしてたらアカン」、「でも死ぬしかないよなあ」、「イヤイヤそんな事考えたらアカン」、「死んだ方が周りも楽になる」等々、同じ考えがグルグル環状線の様に同じ所を繰り返し回り続ける。死ぬ方法も考えるが、結局泥酔した頭で考えつく手段は知れていたし、第一それを調べたり道具を用意するのも面倒臭かった。それより次の酒の段取りの方が大事だった。
 ふと、「このままやったら死んでしまう」と思った。何故そんな発想が湧いたのかは今でも解らない。ただ何とか病院に行こうと思った。アルコール臭がすると入れてもらえないことを知っていたから、やっとの思いで一日酒を切り、這うようにして辿り着いた。病院に着いて間もなく、てんかんを起こして意識を無くした。
 この後まだ性懲りもなく再飲酒するのだが、それを機会に仕方なくにではあったが、入院に同意する。しかし入院プログラムのお蔭で実際「死ぬ」という行動を起こす事はなかった。しかし現在酒を離れて1年半、思い返してみると頭の中は「死」に囚われていた。その思考自体病んでいた、と今なら理解できる。
 当時、自覚はなかったが、家人からは度々「飲み過ぎだ」と言われる小言「うるさいなあ、ほっといて!」とウンザリしていた。楽しみだった飲み会が億劫にになり、晩酌ではなく自室に焼酎の紙パックを持ち込んでいた事がおかしな行動だと思いもしなかった。しかし次第に心身共に不調をきたし、不安が募っていた。酒が原因であることは解っていたが、誰にも相談できず努力はしてみるものの酒は止まらず、意思の弱い自分を責めた。いわゆる「否認」の状態が続き、10年余り経って、ようやく専門病院の門をくぐった。「すぐに入院」、「一生酒は飲めない」、「一生治らない」と宣告されたが、「そんなんムリ!」と心の中で叫び、全く受け入れられなかった。仕事を理由に入院を拒否し、名ばかりの通院。勧められた院内のミーティングやレクチャーには1度も出ず、ましてや自助会など、聞いた様な気もする、程度にしか覚えていない。2週間毎の血液検査が苦痛くらいにしか思えない「通院」だから、9ヶ月で勝手にやめてしまった。
 それから1年半、仕事もできなくなり悪化の一途を辿る。自力で切ろうとするため、市バスの中で意識を失った事もあった。離脱という知識が無いため、不安・恐怖に苛まれた。勝手に止めてしまった病院に行き辛く、思い悩んで別の病院にすがりつく思いでたずねた。懲りていたので、今度は真面目に通い、プログラムも受ける。初めて「飲むと止まらない病気」と知り、自分を責めなくてよいと解って少しホッとする。
 しかし、今度はタカをくくる。異常を感じて悩み出してから初めて酒が止まり、医者やケースワーカーの忠告もろくに聞かず、4ヶ月で仕事を始め。「理屈は解った」、「もう一生飲まへん」、酒が止まっている自分に酔い、毎日ウキウキだった。病院にさえ行っていれば、とまたしても自助会にはつながらず、そのうち多忙を理由に病院からも足が遠のいていった。
 半ば強制的にではあるが、断酒会に足を運ぶ。体験を聴いて話して、何で酒が止まるのか?とは思っていたが、酒を止めるために自分で思いつくあらゆる手立ては使いつくしていた。疑心暗鬼なスタートではあったが通い続け、現在は止まっている。
 酒が止まってやっとスタートライン。過去の事は振り返る事を避けてきたが、その重要性を今は感じている。あの時実際に自傷に至らなくてよかったと思う。
 この様に自分のことを文章化させて頂く機会を与えて下さったことに感謝します。ありがとうございました。

アルチュー人生          (69才 男性)

 私は四国宇和島市生まれです。昭和32年、大阪に出てきました。西宮中央卸売市場に入所しました。
 4年間仕事してお金を貯め高校に行くために転職して夜間部に入りました。そして学校に通学するようになり、校内では酒は飲めません、でも仕事が終わって学校に行くようになりました。そんな時、先生に呼ばれ注意を受けました、「君達は成人でお酒は飲むなとは言いません、せめて学校に来る時は飲まないで授業を受けて下さい。その代り土曜日に私の家に来なさい」とのこと。悪ガキが集合して毎週土曜に先生の家に集まり、先生を囲んで飲み会が始まり。催しは土曜午後10時、11時ごろまで、日曜の朝帰りです。学校生活4年間、楽しい飲酒でした。
 卒業して鉄工所に入社しました、職場ですぐ飲み仲間ができました。仕事が終わり、仲間と飲みに行くようになりました。三交代勤務がついた日から朝仕事が終わり帰宅したらすぐ酒を飲んで寝る、そんな日々が続く様になり、そうこうする毎日が面白くなくなり、淋しさと孤独に苦しみ悩みましたが、なかなかお酒をやめることは出来ませんでした。
 そんなある日、私は仕事中職場で血を吐き病院に行きました、平成10年大道病院です。身体に異状がある、すぐ入院ですと言われ、約6ヶ月入院し、その時の私は手足の震え、下痢、言語障害、頭も狂っていた、そんな私でした。ドン底での入院生活でした。半年過ぎて退院して藤井クリニックにつながり、あなたはアルコール依存症ですと言われましたが、私は否認していました。私の毎日通院が始まります。ミーティング、断酒会、自助グループへ行きながら病院通いしながらの飲酒が続きました。
 朝酒、昼酒、夜酒と自動販売機の前に立ってお酒を飲んでいました。毎日毎日お酒を飲んで平成12年連続飲酒となり、自己嫌悪に陥った、こんな自分は生きていても仕方ない、ただ死にたいと思う気持ちだけで睡眠薬30錠、ウィスキーボトル1本のみ、これで死ねると思い寝つきました。朝目めると病院のベッドの上でした、仲間に助けられました。仲間が来てくれなかったら死んでいたでしょう。
 悪夢から目覚めて帰宅、自殺未遂から11年過ぎました。今は生きておれる事、感謝。毎日命を大切に断酒会の仲間の輪の中で毎日を大事に生きています。

生き残った            (54才 男性)

 10年前、私は社内のホストコンピュータのアプリケーションを担当していました。連日のトラブル続きで、自分ひとりの力ではどうすることもできず、応急処置ばかりを繰り返していました。心身ともに行きづまっていました。                
 毎日毎朝、消えてしまいたい、早く楽になりたいと思いながら会社に出勤していました。 昨夜の酒が何も抜けておらず、ついさっき飲んだような酒臭い息、酔っ払った状態と何ら変わらない身体にブラックコーヒーを流し込み、足を引きずりながら電車に乗り込みます最寄り駅から会社まで徒歩で10分ほど、歩きながら色々な神様や仏様に祈ります。「今日こそは何もトラブルの電話がありませんように・・・、悪しきを払いて・・・、観自在菩薩・・・、天にまします・・・、」神社やお寺に宗教心をもって行ったこともないのに、一心に真剣に祈ります。車が直進してくるのに横断歩道を無理に渡り、車を急停車させたり接触したり、でも怖くて轢かれることはできませんでした。
 会社では、会議に継ぐ会議で、じっくり考える余裕も時間もありませんでした。お昼時間に、食欲は無いのですが、とりあえず何か食べなければとうどん屋に行きます。5、6本うどんとアゲを飲み込み席を立ちます。「俺はいったい何をやっているんやろ、いつまでこんな生活が続くんやろ、もうダメや、もう嫌や、消えてしまいたい」と思いながら会社に戻ります。衰弱した体で仕事も手につかず、ただ就業のベルが鳴るのを待っていました。
 定時となり、逃げるように会社をあとにします。いそいそと近くのコンビニに行き、『ワンカップ1・5』を4本買います。家内からの「今日は飲まんと帰ってきて」とのメールを見て、悲しくて涙が出ますが飲まずにはおられません。店頭で1本を身体に流し込みます。「今夜も深夜に会社から電話があるやろな、嫌やな、帰りたないな」と思いつつ駅まで歩きます。プラットホームのゴミ箱の前で2本身体に流し込みます。だんだん酔いが心地よくなり、自暴自棄になります。電車待ちをしながら、飛び込もうかどうしようかと考えます。「一瞬やろな、思いっきりさえすれば全てが終わる、楽になるで」と酔った頭で思い巡らせます。電車がプラットホームに入ってきて「今や」と思いますが、いつも足がすくみました。何事もないような顔をして電車に乗り込みます。駅で電車を降り、最後のワンカップを流し込んで「また、怖い夜がきたな、トラブル対応の電話に耐えられるやろか」と考えながら家路につきます。
 全ての仕事を投げ出し、放棄して会社を辞める」という本来あるべき選択肢が、当時の私にはありませんでした。生と死の間で、ウロウロと堂々巡りを終わりなく繰り返していました。「仕事に耐えられなければ全てが終わる」と白黒的な考えで凝り固まっていました。毎日が、過労自殺未遂の連続だったのです。
 酒が私を助けてくれたのか、飲んでいなければより良い解決ができたのか、今も判りません。ただ、生き残れた今思うことは、色々なことがありましたが、全て仕方なかったんだと思います。

体験談              (50才 男性)

 昭和36年5月9日に母親が私を産んでくれました。私の母親は体が小さいのですが、大きくて元気な男の子が生まれたと、父親や今年他界しました祖母も大層喜んでくれ、母親から「私にとっても自慢の息子や」と小さい頃から幾度となく聞かせて頂いておりました。仲間の体験談の中で時々ACであったという話も聞きますが、私は幼い時から何の不自由もなく育てていただきました。その事は今でも大変感謝しております。
 高校に入学した頃から父親とうまくコミュニケーションがとれず、父親から逃げたいという思いがあり地方の大学に入学させて頂きました。酒が原因での最初の失敗は大学の寮での新入生歓迎会で大量に飲酒した時でした。日本酒を大量に飲酒しブラックアウトを起こし、意識が戻ると病院のベッドの上で動けずにいました。実家から駆けつけてくれた母親が心配そうな顔で僕を見ていてくれて、何も覚えていない僕が訊ねると、深夜にタクシーと正面衝突を起こし救急車で運ばれ一命を取り留めたとの事でした。未成年であった為、家庭裁判所に送られそこで事故の相手と家裁の方に何度も頭を下げてくれました。それが僕の酒が原因で母親に頭を下げさせた最初の出来事です。
 大学を出て就職すると毎晩のように外で飲み歩くようになり、あっという間に銀行やサラ金で二百数十万円の借金を作りました。一口酒を飲むともう止まらなくなり、ほとんど毎日ブラックアウトを起こし、目が覚めると裸に近い状態で公園や駅で寝ていてどこで何をしたか全く覚えがなく、その度に強烈な自責の念に駆られるもその現実から逃避するためにまた飲酒するという日々の繰り返しでした。初めて両親に借金を返済させたのがその時の二百数十万円で、それからまさしく坂道を転げ落ちるように借金を繰り返し、また飲酒運転をも繰り返すようになりました。その後、某運送会社で勤務するも飲み方が一層酷くなり、結婚するも3年足らずで離婚し結局35歳の時にサラ金・街金・闇金等々で六百数十万円の借金を作りました。「もうあかん」「もうどうしょうもなくなった」と思い会社を無断欠勤し死に場所を探しました。梅田のホテルにチェックインし大量に飲酒をしそのホテルの屋上から飛び降りようと決心を致しました。ブラックアウトを起こし意識が戻ると何日かが立っていたようで、ホテルのフロントからの電話で起こされフロントに行くと母親がそのホテルを探し出してくれて一通の手紙を預けていてくれました。部屋に戻り開封してみると中に現金が3万円と母親の見慣れた字で書かれた手紙が入っておりました。「あんたに何があったかはわからないけど、とにかく一度家に帰ってきなさい。あんたの帰る場所は光明池(実家の場所)しか無いんだから、帰っておいで。それから一緒に考えて解決すればなんとかなるから、とにかくこの手紙を読んだら帰ってきなさい。誰もあんたを怒ったり責めたりしないから安心して帰ってきなさい」と書かれていました。結局死にきれずに死ぬこともできずにまた母親に助けを求めました。いつの頃からか心のどこかで“母さんがなんとかしてくれる”と母親に依存して生きるようになっていたと思います。
 しかし、それからも飲酒が原因での借金、また飲酒運転による事故・検挙を度々繰り返し、仕事も転々と変わるようになり、数年後に5度目位の大きな借金を払わせたときに母親が涙を浮かべながら私に頭を下げ「あんた、もう頼むから死んでくれへんか?」と頼まれました。「泥酔しているあんたを何度か殺そうと思ったけどあんたは私が生んだ子やからどうしても私の手で殺すことはでけへんかった。せやから誰にも見つかれへんように北海道か沖縄の山の中で首をくくって死んでくれ」と。母親がどんな気持ちで自分が生んだ子供に死んでくれと頼まなければならなかったか、何故そんな常軌を逸した状況になったか、そんな事は全く考えもしませんでした。長年の大量飲酒により様々な問題を起こしてきて、その度に母親に尻拭いをさせてきて自分は現実から逃避する人生を歩んできて、問題や現実に立ち向かう気力、もっと言えば生きる気力させも失せてきておりました。
 平成19年の8月2日に会社のお金を横領し逃亡生活に入りました。もうどうなってもいい、この金がなくなったら死のうと思いひたすら飲み続けました。途中で飲み友達から睡眠薬をもらいミナミのビジネスホテルで酒と一緒に飲みました。その後の事は記憶がなく少し意識が戻った時には大阪市内の西天満警察署に保護されておりました。また死ねなかった。これからどうなるんやろ?と他人事のように思っておりました。両親が迎えにきてくれて帰りの車の中で母親はまた私の体の事ばかりを心配をしてくれていました。「なにがあったかはわからないけど、とにかく一緒に家に帰ろう」そう心配そうに優しく言ってくれる母親に申し訳ないといった感情さえなくなっておりました。岸和田警察署で取り調べの際に刑事さんから自分が逃亡している間に両親が何度も会社に謝罪に行ってくれて横領したお金を全額弁償してくれたこと、何度も警察に来て事情聴取をうけたことをしらされました。
 それから間もなく母親があちこちを奔走してくれて新生会病院に入院をさせてくれました。入院当時は自分は生きる事への精も根も尽き果てており、でも入院させて頂いた自分よりも、もっと辛くて苦しくて悲しくて大変な思いをしてきたのは母親の方だと気づくのは、入院中に仲間の会の一泊研修会で母親の体験談を聞かせて頂いた時でした。
 退院をさせて頂いて少しの間、お酒は止まっておりますが、相変わらず自己中心的なものの考え方は変わらず母さんに心配ばかりをかけております。しかし自分は酒を飲んだらすべての事がどないもこないもならなくなります。だから酒は飲めません。いろんな場所で色んな人に時には土下座までしてくれた母親の姿を忘れてはならないと思っております。その為にもこれからも断酒会の中で仲間の体験談を聞き自分も体験談を語り続けます。反省・感謝・報恩の気持ちを忘れずに。

すなおに生きよう         (78才 男性)

 私は、今だから素直に話せるが、自ら命を絶つことは出来ないと思う。事実死ねなかった。この病院で、小杉クリニックを紹介された。アルコール依存症と診断された。これが断酒の始まりである。
 この依存症と診断されるまで職業柄、酒の飲まぬ日は無く、素面の生活は無いに等しい私は不安にガタガタの身体を直す事に、今まで酒を飲むために命がけの努力をしてきた私に、先達が教えてくれた言葉は、「止めるのも命がけだよ、君はとび職だからもっと辛いよ、負けるな」、断酒会の例会の中で仕事帰り姿で参加されている姿は私には素晴らしく見えた事を思い出します。
 また先達は、「ともかく1年休まず参加してみて結果は自分で決めなさい」、私にはその頃友は無く居場所すらない状態、馬鹿なことをすると家族には迷惑、本人は大道を歩けないぐらいの恥で、大変苦労したと思います。小杉クリニックに通院して3ヶ月目、だんだんと元気になってきます。仕事仲間からは手伝ってくれと言われるし、先生は、まだ仕事は早い、仕事を変えればと言われましたが、私にはこの道一本しか生きて行く道は無いゆえ、辛苦は当たり前と思い、働きに行きました。仕事場は以前と同じ、終わればご苦労さんで一杯ですが、これを横目にお疲れさん、お先にと帰る自分は淋しくもあり苦しく、ストレスは頭に円形ハゲとして現れましたが、断酒会で話す、今日一日でき、仲間に助け支えられ自分との戦いに負けず今日一日を努力して来たように思います。また仕事しながらの例会通いに息子も私の姿を見て送迎してくれるようになり、私は嬉しく思いながらも断酒継続は大変な力が要る、これだけ家族はもとより私の断酒に協力して下さる皆に感謝で一杯です。人間一人では生きられません。若い元気な内に気づいたら実行する、必ず辛抱努力の木には幸せの実が成ります、皆それぞれ生きて行く姿は異なりますが、目的は同じです。自分で作った病は自分で直す努力するのは当たり前のこと、道は開かれております。するかしないかは本人の決断であり誰も代わってはくれません、努力するのは本人自身です。断酒をしても辛苦も病気も付いて来ます、それに負けずに幸福になるのも本人家族です、喜んで頂ける方のいらっしゃる内に元気な笑顔のある人間に生まれ変わる希望を持ちたいです。色々と日本は災害に遭い大変ですが、まだ敗戦の日よりはましと思い暮らしています。暗い世の中を元気に明るく希望を持って頑張る、必ず回復する力を信じて、小杉院長の残した言葉に、原点、歩、心。 いつも話されていた、素直に生きるを肝に銘じ皆様の指導を仰ぎながら努力して行きたく思っております。

死に至る病            (67才 男性)

 一瞬目の前がふっと明るく光った、何が起こったのか判らないままに、燃えている火を慌てて消していた。意識を取り戻したのは近くの病院だった。 顔面がひどく痛み、喉が渇いた。水を一晩中少しずつ飲んでいるうちに酒の酔いも覚めて、自分のした事が思い出されてきた。えらい事になった、どのように言い逃れをしようかという思いで頭の中が一杯になる。顔と手足に巻かれた包帯の下でズキズキと痛む傷の不安で、死のうと思った心とは裏腹に、これからどう生きて行くのかと不安になっていた。自殺のやりそこないと、気づかれている事実からは、逃れられない。そんな自分に付き添っている妻が、「警察やら消防署の事情聴取が来たら事故やと言うときや」の一言に救われて、事故にすることでゴマカスことにした。遺書の代わりに「さらば」と書いたメモを警察が見つけたが、とくに詮索される事もなかったと妻が言ったので、ガス漏れに気づかずタバコに火をつけた為に爆発したと、間抜けな事故にする事で済ませることにした。
 思えば18歳で高校を卒業した時から自分の将来に夢も希望も失っていた自分、大学に行く気もなく、担任の教師の仕事を片付けてやるような気持で就職、そんな仕事に生き甲斐があるわけも無く、若くして酒の酔いの中で過去の思い出に耽り、またそれを忘れたいために酒に溺れていきました。そんな日々に、自分は40歳まで生きたくないと思っていたせいもあり、毎日が殆ど二日酔い、給料だけでは足りないので母親から小遣いをもらって仕事に行く情けない自分を、心では責めながらどうすることも出来ないままに、ひょうきん者の一面に死ぬ理由を捜している自分を隠して生きていた。キエルケゴールの「死に至る病」や太宰治の「人間失格」を読みながらも、酒で酔う事で生きてきて、妻と出会うことで希望を見出す事が出来たように思えたのですが、その時にはもうすでに私の心身は、アルコールに侵されていたようでした。もともと仕事に情熱がある訳でもなく、妻に請われるままに妻の実家の運送業の運転手に仕事を変えて、妻子の為に、マイホーム実現の為に休日も返上して働きましたが、酒による人格の崩壊が自分の起こす事件や事故で進んでいきました。飲酒運転の日々に、事故を起こしても懲りない酒、運転免許の取り消しは必然的にやって来ました。
 マイホームを手に入れて僅か1年、気がつくと休みの日などは、妻子はいつも妻の実家に帰って自分は独り家で酒浸り。
 その日は32歳の9月15日、敬老の日でした。妻子はいつものように朝から実家に出かけ誰もいなかった。夕方に酔いからさめて誰もいない家で独りいた。それはいつものことながら、自分の心にもうこんな生き方がいやになった。一回死んだろか、そんな気になってまた少し酒を飲んだ。一升瓶に三分の一ほど酒が残っていたの、なぜか覚えている。悲しいとか、寂しいとかではなく、空しさの他に何の感情も無く、ガス自殺をすることにした。しかし心の隅で失敗するだろう事を考えてもいた。だからその時に困らないように遺書は書かず、「さらば」と書くだけにした。準備をしてガス管を元から抜いて、元栓をひねり、シュッとガスが吹き出るのを確認して横になって5分ほどした時、友達が仕事の用事でもあって来て
話したが、あまり記憶にはない。友達は当然の様に「そんな事あかんで」と、30分ほど話して帰って行った。自分も「わかった、わかった」と言うしかなく早く帰ってほしいだけだった。早くしないと妻達が帰ってくる、急いでガスの元栓をひねる。友達と話している間に飲んだ酒でかなり酔っていた、いつもならパンツ1枚で、酒で酔い潰れている筈が、死ぬからと着たTシャツとズボンのお蔭で全身火傷で死ぬところを免れたという事だった。死にそこないの入院ほどみじめな事はない、見舞客も無く、何の慰めも励ましも無く1ヶ月、退院した日は独り祝い酒で泥酔していました。
 2回目の免許取り消しを食らった時には、もう死ぬ勇気も気力も失せていました。酒を止めるための精神病院入院も、拒むことも出来ず言われるままに仕方なく、それでも酒だけは止める気になれず再飲酒。2回目の入院は死ぬ寸前で担ぎ込まれてその時の記憶もない始末でした。
 死ねないなら生きるしかないと開き直って断酒を決意してから30年が来ようとしています。生きる事に消極的だった自分が「しぶとく生きたろ」と、思うようになったのは、多くの仲間が死にたくないのに死んでいった姿を見たからに違いないと思います。「死にとおないけど、死ななしゃあない」、こんな事にならない為に仲間と共に寄り添って生きていきたいと思います。

六道から断酒道          (70才 男性)

 己の飲酒が、自分自身を失い自己中心的故、家族の苦しみを感じ取れなかった日々。
 妻が自分の酒を止めさせて下さいと、お百度を踏み、ご祈祷してもらっていた事も知らず飲酒を続け、飲酒事故を起こし右足複雑骨折。その時はもう肝臓、糖尿も相当悪く、医師からは「義足を覚悟しといてくれ、アル中や、ここを退院したら専門の病院に入院させなさい」と聞かされた妻はショックを受け、禁断症状の私から「俺がこんな足でなかったら、おのれみたいな女叩き殺してやる」と暴言を吐かれ、義母からも非難され、脳貧血を起こし、これ以上看病し続ける事が出来ない。もうこんな男と離婚しようと思い鹿児島の実家に帰ったが、99歳の祖母を看病している母の姿を見ていると、自分自身の胸が締めつけられつつも、これから先の辛さ、自分自身の弱さ、先の絶望感に苦しみ、気づいた時は、目の前に列車が軋みながら止まりました。いつの間にか枕崎線の線路を死にたいとヒールの踵を砂利に咬まれながら歩いていたのでした。死ぬ事も、離婚する事も出来そうにないし、どんな辛い事があっても我慢しなければと、心に言い聞かせて帰って来たそうです。
 しかし、退院した私は日本酒は米だからと、ビールを飲みだし、それがウィスキーの水割りに変わり、ストレートに変わり、飲む物が無くなると味醂まで飲み、暴言暴力がいっそうひどくなり、身体中が震えながら狂ったように「金を出せ。金を出せ」と迫り、出さないと暴力を振るっていました。妻は、これ以上病気を進行させたくない一心で、狂ったようにウィスキーを捜しては捨てていました。私は「おのれは働きもせんと俺が働いた金を捨てるんか」と言って、殴る、蹴る、子供が止めにはいると子供にも暴力をふるい、妻と子供が素足で逃げて行くと、帰って来るなとばかり石を投げつけていました。飲んでは寝、飲んでは寝の状態になって来ました、その頃は妻も精神的に参っていて500円玉ぐらいの円形脱毛症が「出ては消え、出ては消え」していました。
 ある時、人生が嫌になってか、発作的に「あんた殺して、うちも死ぬ」と包丁を突き付けてきました。押し入れのふすままで詰め寄られたとき。寝ていると思っていた子供が「お母さん何するんよう」と言って包丁をもぎ取ろうとした時、妻は「こんなお父さん、お父さんなんかじゃないから殺してお母さんも死ぬ」と叫んでいました。「お母さん、死ぬぐらいだったらおばあちゃん所に行こう」と聞こえた時、妻は目が覚めたような顔の後、泣き崩れていました。私は「はぁ助かった」、こいつ狂っているとしか取れませんでした。
 あくる日、子供は学校へ、私は酒を求めに外出して、家に帰ると、明かりも無く、ガスの吹き出す音がし、妻はタンスにもたれかかり座り込んでいました。子供の前で一人しかいない父を殺そうという姿を見せてしまい、その罪に苦しみ、一人で死のうとしていました。
 アルコール専門病院入院中の時、ある日、外泊で自宅に帰った時、妻と息子が楽しそうに食事をとっていました。その光景を見て「もうこの家には、俺のいる場所もないなぁ」と感じました。
 その次の外泊の時、「もう家庭には俺の居る場所もないし、俺は不必要や」と思いつつ家に着きました。丁度妻は買い物に行ったらしく留守で、ふとその時「俺が死んでも当分の間は生命保険、退職金で食って生けるやろ」と思い、流し台の下から出刃包丁を背中のベルトに差し込み家を飛び出しました。「どこかの玉葱小屋にでも入って死んじゃろう」。そうして当てもない方向に歩いている時、偶然にも会社の同僚に声をかけられました。話しているうちに、「何かおかしい」と感じ取られたのか「家まで送るわ」と、半ば強引に車に乗せられ家に連れて帰らされました。家に着き玄関のドアを開け中に入ると、炊事場に居た妻が「うあぁっ」と泣きながら私の首にしがみつき、泣きじゃくりました。妻は買い物から帰って来て、食事の下ごしらえをしようとした時に、包丁が一本なくなっているのに気づき、「あの人が帰って来て、酒を止められない自分に苦しみ、死のうと持ち出したのでは」と。そう思うと、いてもたってもいられず、警察以外の気づいた所全部に電話したそうです。そんなところに、ひょこっと帰って来たのです。
 私は、妻に首っ玉にしがみつかられ泣きじゃくられている間、「こいつ、まだ俺の事想ってくれてたんや」と感じました。妻に抱きつかれ、泣かれ、心の中から「すまん、悪かった」という気持ちが湧いてきたのです。その夜は2時頃まで、何年ぶりかの夫婦らしい会話をしました。もうほとんど忘れてしまいましたが。
 今まで俺は、酒は止めたいけど止められへん、失禁もする、水便も時には垂れるどうしようもないアル中や。止められへんのや。そう思ってきた。しかし俺は、本当に酒をやめる努力をしたのか?「出来ない」ではなく、「やろう」としなかったんと違うんか?『人生逃げ場なし』という。このままでは、どうしようもない人間になってしまう。断酒できるかどうか分らんけど、とにかく自分を捨ててかかる努力をせにゃあ・・・。
 振り返って思うに、人の死は、病死、事故死、自殺、他殺、に分けられるが、アル中は死に至る病気というが、「自分自身を自死に追いやり」、家族までも「自死にむかわせていた」。アルコール依存症の回復は自分自身の努力が不可欠だと気づいた時から、「例会が命」。例会に通い自分自身の洞察を続けている。

新たに生きる           (34才 男性)

 幼い頃、大酒飲みで酒乱型の父は酔っ払う度に母に暴言暴力を繰り返していた。そんな家庭で育った私は、酔った父の機嫌を取る為わざとおどけてみたり、両親の夫婦喧嘩を遮る為にいたずらをして注意をこちらに向けさせるようなピエロの様な子供だったと思う。そんな子供が社会に出て大人になると、知らず知らずの内に人の顔色を伺うのが得意な大人になっていた。常に本音の自分と建前の自分が心の中に2人存在しているような感じがしていた。
 職場では相手の立場を尊重しすぎて自分の意見が言えない、自分の気持ちを押し殺して相手の意見を尊重する、周りから見れば都合よく扱える便利な人間だったと思うが、私自身は本当の自分が分からない、非常に生き辛い毎日だった。
 だが10代半ばで覚えた酒を飲んでいるときだけは本当の自分を表現出来るような気がして他人ともスムーズにコミュニケーションを取る事が出来、いつも気にしていた他人の顔色を覗う事もなく、人と普通に接する為には無くてはならない存在になっていた。そんな魔法の道具の様な酒も、20代の半ばで休日の朝酒を覚えてから悪魔の水に変化していった。二日酔いで仕事を欠勤する事も増え、二日酔いの苦しさを消すために迎え酒。 いつしか無断欠勤する事も増え始めた。飲めば飲むほどに壊れていく心と体。アルコール性肝炎による入院を経験してその際内科医から「このまま飲み続けるとあなたの体は2年持ちませんよ」と言われ、その場では「少しは控えよう」と思うのだが、退院して飲める体になればまた飲むの繰り返しだった。この頃から精神的な面でも変化が出始め、常に心の中で「もういなくなりたい」、「いっそ死んでしまおうか」と考えるようにもなりだした。そしてある時期を境に仕事のストレスが限界に達し、何もかもが嫌になり会社を何日も無断欠勤し、部屋に籠り酒びたりの毎日が続く。「このまま酔っ払って寝て、明日になったら死んでたらいいのに」と、体は生きているのだが頭の中は完全に死人であった。死にたいと思う気持ちが頭の中を巡るのに、まだ本能的なところに「死にたくない」と言った思いがあるのかどうかは分からないが、直接的な自傷行為を行った事も無くただただ酒で命を削り続け、「あの時内科医も言ってたようにこのまま飲み続ければそのうちに死ねるだろう」と言う様な甘ったれた考え方でいたのだが、ついには連続飲酒に体が耐え切れなくなり、アルコール専門病院に繋がる事になった。そして専門病院の初診時に主治医から言われた言葉「あなたはアルコール依存症です。それともう一つ・・・、次に飲めばあなたは間違いなく死にますよ」。
 あれだけもう自分なんてどうなってもいいと思っていたが、この言葉が胸に響き入院と同時に自分の断酒が始まった。仕事、金、友人関係全てを失い、残ったのはボロボロの体だけだったが、断酒会に繋がり酒を止めていく中でまた新たな仲間が出来、その輪の中で色々な話を聞かせてもらう内に、徐々に生きる気力を取り戻す事が出来、何よりも生きる事についてもう一度一から考えさせて頂くチャンスをもらったような気がする。そしてこの一月で周りの方の支えのおかげで断酒2年を迎える事が出来た。初めての内科入院の際に言われた「あなたの命は2年持たない」と言う月日を、飲まない事によって生きることが出来ている事には本当に感謝しています。
 「次に飲んだら無い命」。確かに素面で生きて行くと言う事は決して簡単なことでは無いが、この命が無ければ過去に対する償いも出来ない。せっかく頂いたこの命で新しい人生を大切な仲間と共に全力で生きていたい。その為に出来ることは一日一日飲まない日々の積み重ね。これからも初心の気持ちを忘れる事無く例会出席、一日断酒で精進して参ります。

あの日              (53才 女性)

 20才の時、31才の時、死のうと思った。ひとりの部屋が、真っ暗になり青黒く光った。人間が死ぬ時は、こんな光景を見るんだと思った。お酒は入っていた。
 あの時は、どうだったろう。
 台所でつぶれて、つぶれて、入院し、再飲酒で又入院したあと、頑張れなくてもっとお酒に落ちていった。死にたい、死にたいと、電話の向こうの主治医に叫び続けた。電話の相手は妹だったりした。
 うつで苦しいとお酒に逃げ、最後は死にたいと叫び続ける。ずっと夫と子供はその中にいた。2人には「死」というひと言が、もう何でもないもののようになっていたのかも知れない。酔ってはそう叫び続けて家を飛び出す。夫はすぐ迎えに来てくれた。仕事にも行けないし、子供は勉強も出来ない。
 私も家族も追いつめられていた。
 ある夜、夫と子供は「お前が出て行かないなら、俺らが出て行く」とリュックの上にシュラフを載せて、電話線を切って出て行った。台所のテーブルの片隅で飲んでいた私は、ハッとした。2人より電話線の方をにらんだ。どうしよう、うろたえて、線がどうにか繋がらないかと電話の辺りをまさぐっていた。出て行く2人には、目を向けもしなかった。そのまま前の家と隣の家のチャイムを鳴らして奥さん達に来てもらって、おろおろしながら、繋がらないかと頼んでいた。その様子があまりに不気味だったのか、すぐそのあと隣の家は引っ越しをした。電話線がどうにもならないとわかった私は、まるで命の綱でも切られてしまったかのように、茫然としてフッと以前夫が缶チューハイでほろ酔いついでに言った言葉を思い出した。
 「トラックに飛び込んでくれ」
 真冬だった。真っ赤なスエットの上下を着たまま家を飛び出した。軽々と走り続けた。国道はかなり遠い。でも飲んでいるから寒さも感じないし、酔いにまかせているから遠いとも感じなかった。
 悲壮感は無かった。ただ、うまくひかれる事だけを真剣に考えた。母の顔も子供の顔も浮かばなかった。私は世の中でたったひとりだった。夜更けの田舎の国道は、通る車も少ない。時々トラックが通る。国道の端に背を伸ばして立ちながら、来た、と言って飛び込んだ。でも酔っているから距離感がわからない。今度こそ。2度目も失敗して。3度目はそこまで近づいて来るのを待って、1、2、3と数えて飛び込んだ。
 「どうした、大丈夫か」、運転手さん達の声がした。そして、ひかれることなく警察署の取調室にいた。しばらくして夫と子供が迎えに来てくれた。ニタニタ笑いながら出て来た私を、12才の子供が「何やってんの」と怒鳴りつけた。これでは親と子が反対だと、その時思った。若い頃の様な死に対する切迫した思いはなかった。突発的に走った。
 次の日から、アルコール病院の隔離病棟に入ることになるが、その時の方がむなしかった。でも私よりむなしかったのは、夫と子供ではなかったのかと、今思う。

アルコール依存症に於ける自殺と私 (60才 男性)

 私が生まれたのは、山口県下関市です。地元の高校を、昭和44年に卒業しました。卒業後魚箱屋の見習いとして会社に入社、その後47年に独立、有限会社を設立、従業員十六人を抱える社長となりました。その頃の酒の飲み方はごく自然で、コミュニケーションを取る為の手段として、楽しいものでした。
 会社は順調でしたが、発泡スチロールの出現で、次第に魚箱が押されるようになりました。その結果借金が嵩み、下関を逃げるように出て来る事になりました。
 落ち着いた先は釜ヶ崎でした。その頃の釜ヶ崎は労働者が朝から酒を飲んだり、路上で寝ていたりしました。その様子は初めて見る光景でした。
 その内に仲間が増え、一緒に飲酒をするようになりました。毎日が酒浸りの日々で、仕事にも行かず酒屋の前で、あたかも自分がボスのような存在で、黙っていても酒や金が集まるようになりました。
 しかし、そんな生活も段々と嫌になり、次第に自暴自棄になり、挙句の果てに最後の一升瓶を飲み干し、ドヤの七階から飛び降りてしまいました。
 気がつくと大和中央病院の一室、医師の話によると「3日間生死をさまよっていた」そうです。足にはボルトが8本入っていると知らされました。それでも退院後、酒を断つ事が出来ませんでした。
 その後は酒による入退院の繰り返しで、ちょっと肝臓が良くなると、すぐに酒に走り、ひどい時には院内飲酒をしてしまいました。精神病院は、新いずみ病院、貝塚サナトリウム2回、狭山病院、汐ノ宮などの病院に入りました。
 そんな時、役所のケースワーカーに「良い話があるから二時に間に合うように役所に着なさい」と言われ、行きましたが、早く着いてしまい2時までに時間があるので、酒を5合ほど飲んでしまいました。
 行った先は保健所の行う酒害教室で、そこで初めて小杉先生にお会いしました。先生に一言、「これから天王寺の小杉本院にタクシーで行きなさい」と言われて行きました。
 その内、酒害教室を終えた小杉先生が帰って来られ「この方は明日入院させます」と言われ、柏原の記念病院に入院しました。そこでアルコール依存症についての色々な勉強をしました。回復はあるけど完治はない恐ろしい病気です。アルコール依存症が病気と知り、ほっとしました。
 病気なら治さねばいけないと思い、断酒会に入会しました。最初は各会、支部などを巡り、色々な体験談を聞き、聞くこと語ることの大切さを知り、現在に至っています。
 今では会長という重責を務めさせていただき、充実した毎日を過ごさせていただいています。
 一日断酒、例会出席で頑張りたいと思います。

苦しみから回復へ         (56才 女性)

 私が初めて酒を飲んだのは高校2年生の時で、友達六人とスナックで飲みました。早く結婚をしたので酒は最初の頃は飲みませんでした。子供二人いるので酒は控えめにしていたのですが、子供2人が高校生の時に主人の会社が倒産してからスナックで働くようになりました、30歳の頃でした。
 スナックのチーフから、店に入る時に酒を一杯飲んだら気が大きくなる、と教えられました。酒を店で飲み、また家に帰っても飲み身体がしんどい中で炊事をやり、ちょっとの隙で火が燃え移り、ようやく消し止める事ができました。
 それでも酒はやめられずに1年間で4回、内科に入退院の繰り返しで2回目の時にアルコール中毒と言われました。その後新阿武山クリニックに通院するようになり、泉州病院に入院をしました。泉州病院で2回目の時に協議離婚をして、その時にケースワーカーのMさんが福祉になるように動いていただきました。外泊をして守口の太子橋今市のマッチ箱のようなマンションを借りました。狭くて1人で生活をすると圧迫感を感じて、死にたい願望が出てきて毎日死ぬことばかり考えていた。マンションが七階段だったので、そこから飛び降りようかなと思ったが、できなかった。また近くの淀川の橋から飛び込もうと思って橋まで行くけど、実行はできず行ったり帰ったりして、あの時はほんとうに苦しいでした。
 その時に、前に泉州病院で一緒だったある人の事を思い出し手紙を出しました。肉体的にも精神的にも金銭的にも苦しいから、一度話を聞いて下さいと書きました。平成13年の春で天王寺で会ったのですが、その頃は市販されている薬にも走っていて苦しい中で会って、その苦しみを話しました。ある人を介して十三のNAに行きそこのリーダーのキセテイさんから大阪府こころの健康センターを紹介してもらい、岡田清先生に会って高槻の光愛病院に1ヶ月入院をしました。退院後はAAに行ったりNAに行ったり毎日がその繰り返しでしたが、太子橋今市のマッチ箱のようなマンションに帰るのがいやで岡田先生に意見書を書いてもらい大阪市住吉区の住吉大社の近くに引っ越しました。そこで知り合いの人がいちご作業所に行っているので私もいちごに行くようになりAAといちご作業所に行き断酒のリズム作りをして3年前に市営住宅が当たり、現在に至っています。
 断酒会も3月に1年表彰をもらいました。今は、今までの人生で一番幸福です。これからも断酒会を大事にして毎日を楽しく頑張っていきます。

死ななくて良かった        (71才 女性)

 平成6年9月に初めて小杉クリニックに受診した日、この日から私の人生は変わりました。
 ここにたどり着くまでの34年間夫の酒に悩まされ続け、何度死にたいと思った事か。今思えば、結婚した時から夫の飲み方は普通ではなかったと言えるが、飲まない家族で育った私にとっては、男の人はこんなものかな、と思っていた。飲みながらの自営業のせいか、仕事も無くなり、外へ勤めに行くようになっても、どんどん飲み方はひどくなって行きました。一般病院の入退院の繰り返しで、そのたびに仕事は首になり、生活も苦しくなるばかりでした。夜は皆が寝てからお金や、ある筈の無いお酒を捜しまわり、挙句の果てに2階から飛び降り、酒を求めに行くありさまでした。こんな状態の2人の闘いが長い間続き、その繰り返しに私の精神状態は最悪になっていきました。
 夫の両親を見送り、2人の子供も結婚し、夫とだけ向き合うようになって、疲れ果てた私は、自分は今すぐにでも死にたいが、夫を残して死ねないと思い、夫を道連れに死ぬ事ばかり考えるようになりました。どろどろになり寝ている夫を横目に、夫の首を絞めようか・・・、2人で船から飛び込もうか・・・、電車に飛び込もうか・・・。子供達に迷惑をかけない方法は無いだろうか、毎日頭の中はその事ばかりでした。
 そんな時、私は飲んで寝ている夫を家に残したまま、ぶらぶらと。気がついたら娘の家の前にいました。「お母ちゃんもうあかんわ、疲れたわ」と言った言葉から娘は全てを察してくれました。「2日だけ待ってな、考えてみる」と言って探してくれたのが小杉クリニックでした。
 今思えば、あの時本当に死ななくって良かった。今の落ち着いた生活で繰り返し思う。本当に死ななくって良かった。

「ふたつの立場」から       (69才 男性)

 私は自殺を企てた事があります。幸い未遂に終わったので、こうして此処にいるのですが、あれは3回目の浜寺病院に入院する直前のことでした。
 初回入院にあたって「条件が許すなら、1年間休職して断酒に専念して下さい」と主治医のアドバイスがあり、自分達で作った会社でしたので、社長にその通り申し出て1年間の休みを戴き、例会回りに専念いたしました。貧乏でしたが妻もパートで働いてそれに応えてくれました。それがあって1年間断酒出来ましたのに、それを忘れて職場復帰してからは、例会出席が減るようになり、気の緩みからか飲酒欲求に負けて、隠れ酒が始まりました。1度成功すると次の機会、又次の機会と、度々飲むようになり、最後に息子の知るところとなって、あれほど嫌だった浜寺病院へ自ら入院する始末でした。2度目の退院をしてみると、家の内の家族関係は一変していて私は、針の莚に座らせられている様な毎日でした。それに耐えて1年4ヶ月程、禁酒出来ましたが根負けして再び隠れ酒をするようになりました。苦しかったです。「もうこんな人生終わりにしよう」と思い、それまで飲み忘れたのを貯めていた睡眠薬を全部食べてしまいました。
 今になって解ることですが、当時は離婚して家族全員が出て行った家に帰ったとき「家族に捨てられた」と思いましたが、本当は私のほうが家族に対しての全てを捨ててしまっていたのです。申し訳ない事をしたと今は反省しています。
 今度はA子さんの話をしましょう。彼女には私と同様に3人の子供さんがいました、上の2人が男で末っ子は女でした。私と彼女が知り合ったのは、病院のデイケアでご一緒したのが始まりです。仲良しになってお互いの心通じ合うようになるまでに4、5年もかかったのではないでしょうか、私は断酒中でしたが、彼女はなかなか断酒に踏み切れず、度々飲酒して入退院を繰り返し、退院しても1、2ヶ月、長くても半年もすれば仕事に就き、ストレスから飲酒して仕事が出来なくなり、自ら辞めたり、馘になって入院するというのが、パターン化していたようです。
 そして経済的に行き詰まってしまい、自殺を決行し、逝ってしまわれたのです。
 私は思うのですが、逝ってしまわれたA子さんは楽になられたかも知れませんが、後に残された3人のお子さん達は、どうでしょう。私でさえトラウマになって苦しんでいるのに、特に末っ子の娘さんはお母さんが大好きでしたから、ショックから立ち直れないのではないでしょうか。どうか皆さん自殺しないで下さい。今はお先真っ暗に思えても、生きてさえいれば穏やかな晴れの日が来ます。

おわりに

 私たち大阪府断酒会の会員、家族が生き続けることを止め、自ら命を絶ちたいと思った体験を、率直に表してくれました。依頼を受け、それぞれの方々が自らを振り返り、手記にして下さいました。普段の例会の語りを思い起こさせる、オーバーな表現や、隠し立ての無い体験談として、お読みいただけたと思います。
 アルコール依存症者の飲酒は慢性的な自殺と言われます。酒を飲んではいけないと気づいた人、やめようと決意した人は断酒し続ける事が「生き急がない」事だと考えます。酒害の苦しみの中で自ら死を選ぶ仲間や、酒は止まっても自死に追い込まれる仲間を、多く見てきました。仲間の死に、何も出来なかった、出来ようの無いことを思い知らされて来ました。
 以前に比べ、アルコール問題が直接の原因と見なされる自死は、むしろ増えてはいないと感じる方もいます。複雑になり、上手に生きていくのが簡単ではない現在の社会で、断酒例会の自らを語り、同じ場にいる方々の語りを聴く作業が、出席者の孤立感を取り除き自らを愛する力となることをしんじています。
 私たち大阪府断酒会の会員、家族はアルコール問題を持つ多くの仲間と出会い、共に自らの命を生ききる心を育んでいきたいと思います。