広報宣伝部からのお知らせ

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更新日 平成26年11月10日(NA)
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応募作品『なにわ73号』読者の広場

応募作品紹介

 たくさんのご応募ありがとうございました。(広報宣伝部一同)

広報宣伝部の取組み紹介

『断酒宣言の日』飲酒運転根絶キャンペーン(平成26年11月9日)

『断酒宣言の日』飲酒運転根絶キャンペーン
『断酒宣言の日』飲酒運転根絶キャンペーン
『断酒宣言の日』飲酒運転根絶キャンペーン
『断酒宣言の日』飲酒運転根絶キャンペーン
『断酒宣言の日』飲酒運転根絶キャンペーン
『断酒宣言の日』飲酒運転根絶キャンペーン
『断酒宣言の日』飲酒運転根絶キャンペーン
『断酒宣言の日』飲酒運転根絶キャンペーン
『断酒宣言の日』飲酒運転根絶キャンペーン
『断酒宣言の日』飲酒運転根絶キャンペーン
『断酒宣言の日』飲酒運転根絶キャンペーン

体験談 なにわ第76号

『行動に移していくべき時期に』吹田市断酒会 男性

平成26年10月、私は新阿武山病院に入院し本日まで断酒できている自分を不思議な気持ちで見ています。思えば入院前の3年から4年は毎日毎日とにかく酒、酒の日々でした。家族や周りの人にどれだけの迷惑を掛けたか、特に家族には言葉では言い尽くせぬ程の苦労を掛けてしまいました。妻から入院しなければ離婚と宣言され、とにかく離婚したくなくて、その場が治まれば良いと思い入院いたしました。ただ私は入院することにより、3つの大きな恩を頂きました。

1 知 識

アルコール依存症の知識、これは本当に自分が何も知識が無く、酒を止められないのは自分の意思の弱さだと飲んでは後悔し、それでも飲んでしまう自分に情けなくなり死んでしまいたくなることもよく有りました。

しかし、『アルコール依存症は病気である』個人の意思の問題では無いと分かった時は、暗闇の中に一つの明かりを見た思いでした。「病気なら治るかもしれない」、今でもあの時の前が見えた時のうれしさは忘れません。

2 断酒会に出会えた事

新阿武山病院から、毎日断酒例会に出席するように指導があり、仲間と一緒に各地域の断酒例会に出席しまた、私の地元吹田市断酒会を紹介いただき、退院後入会させて頂きました。

最初から温かく迎え入れていただき、先輩方の体験談を聞き、家族会の話を聞き本当に、自分の今までしたことの罪深さで体が震えました。

もうあの惨めな悲しい時に戻りたくないとの強い思いが湧き出てきました。

断酒会は『気づきの場だ』と言われます、本当に自ら「気づく」ことが本当に大切だと思いました。

3 病気の発見

入院時の、胃カメラで胃がんを発見していただき、早期発見のおかげで、ステージ2、手術も成功しました。また、肝硬変、食道静脈瘤、喉ポリープと、手術を4回受けましたが、これも入院で見つけていただいたお陰と感謝しております。

私は今断酒出来ているうれしさでいっぱいです、お酒のない日々がこんなに充実しているとは思いませんでした。毎日感謝の日々です。

もう2度とあの惨めで、悲しい時には戻りたくないと毎日思います。

ありがとうございました。そしてこれからもよろしくお願いします。

『酒と私』箕面断酒会 男性

未成年の時、いたずら半分で酒を飲んだ記憶があり、テレビの影響があったと思いますが、健全な商業活動だから非難されることではないです。当時、飲酒に対して世間も甘く、周囲も穏やかな時分でした。とはいえ、わたしは酒を飲んでは冷静さを失ってものを投げたりして家の硝子を割ったり、家内に殴り掛かったりもしていました。夕食はそんな光景でしたから、当然楽しいはずの一家団らんの時でしたのに、気が狂ったとしか思えないことをやってしまいました。子供達にも怖い場面を見せて家族に迷惑をかけ苦しめました。娘は大人になってからは発作が出る様になり、クリニックへ通院していました。幼い頃の体験がこんな形で出てきて、それはわたしのせいで、申し訳なく反省しています。

今は飲酒に対しても厳しく、事故や新聞等で依存症についても、多々掲載されてますね。車の事故も起こしました。年末年始に酒を飲み過ぎて、交差点でバイクごと跳ね飛ばされて、けがはなかったんですが、警察署で怒られ相手にも迷惑をかけました。もう一件事故を起こしたようですが覚えていません。

夏休みに家族と一緒に、車で田舎へ帰った時の事です。盆踊りや夜店で皆と遊んで家でビールを飲んでいました。もようしてきて、トイレと間違えて押入れで用を足そうとしました。周りの者達が止めに入って事無きに済みました。翌日に大変怒られました。

又こんな事もありました。義母が亡くなって通夜の時、夜が長く感じて、会館の隣がコンビニでウイスキーを買って飲みました。いつの間にか寝込んで、放尿してしまいました。直に息子が下着を買い与えてくれました。次の朝目をさますと息子から大変怒られました。当然です。親せきの居るところで大恥をかかせたのですから。

妻の方もアルコールで、肝硬変で亡くしました。後日押し入れからビールの空き缶が多数出てきてビックリして処分する事になりました。

それから月日が過ぎ、わたしは長年の飲酒が禍して、遂に歩行困難になり、リハビリ科へ入院しまして、朝と午後の2回トレーニングを受け、3ヵ月で退院できました。その時は息子に、着替えなど持ってくるようにと、息子も忙しい仕事の合間に何回も来させて、用事も頼んでました。息子は気分転換にとテレビ用のカードも買い与えてくれました。

退院して家に帰ると、居間のカーペットが新しいものに取り換えてあり、不用になった家具や読み終えた本等も、きれいに処分してあり、介護用ベッドも用意してくれました。

そして、息子が見つけてくれた断酒会に入会できて、新阿武山病院へ行き通院しました。結局、主治医から入院を勧められて入りました。不安な気持ちでしたが、スタッフの方々は普通の人に接するようにしてもらい、ホッとしました。毎週アルコール基礎講座を受けて、アルコールは薬物であり、再飲酒すると以前にも増して大変な状態になると教わりました。入院して良かったと思います。知らずに飲み続けていたら今頃はどうなっていたかと考えると恐ろしいです。専門病院や自助グループも知ることができました。知ると知らないでは、大違いでした。

随分と家族を苦しめ、困難な立場へと追い込んできたわたし。そんな過去を振り返る事が出来るようになりました。

入院中と今も断酒会に通っています。父の日には娘からポロシャツをもらいました。こんな過去のわたしにも拘わらず、子供達の協力と支えで病院や先生にも恵まれ、勉強をさせてもらって、今わたしは幸せ者です。

『酒をやめれば、生き方変わっていた』大東市断酒会 男性

己の性格を考え「アメとムチ」、「北風と太陽」、どう考えても己は「ムチと北風」。トコトン追い詰め己を追い込み、当時のほんの一部ですが、書かせて頂きます。

和歌山断酒道場、朝6時20分ママチャリで走り出し山越えで国道4 2号JR紀伊由良駅へ地図の上では、北上すれば難波高島屋へと走り出し、一発目のとんでもない山越え「水越峠」へ、ひたすら登る強烈な峠越え。出てくる自責の念は、「あほちゃうか」若い兄ちゃんの青春1 8切符やったら、絵になるけど、厄年のおっさんが沸き上がってくる思いは「あほちゃうか」反省等一切無し

ひたすら登り切り、やっと水越峠の下り坂へ、今わしは酒をやめる為に四條畷断酒会、出席するぞとママチャリ走らせ、地図の上でしか見たこともない「有田川」を今、渡っている。和歌山城の横を今わしは走っている。沸き上がってくる感動、その後も紀ノ川を渡り最後の難関「孝子峠」へ、これを登り切れば、大阪平野。出てくる思いは「あほちゃうか」。厄年のおっさんが、飯も食わんと、水だけ飲んで、やっと難波高島屋。その後も四條畷より京都平安会一日研修会、新阿武山病院院内例会、新生会病院院内例会、泉州連合一日研修会、尼崎断酒会一日研修会、大阪市断酒連合会25周年記念大会中之島公会堂。

極めつけは、奈良一日研修会。阪奈道路一本で山越え、強烈な峠越え。出てくる思いは「あほちゃうか」。パンク故障し、気持ちが切れんようにと己に言い聞かせ、やっとの思いで奈良盆地へ、やっと見えてきた会場。小学生の頃に遠足で来た若草山が目の前に飛び込んだ瞬間に、その後断酒会をやめる出来事と遭遇。

その後、一人断酒会を四條畷で貫き通し、2 3年間断酒会を離れておりましたが、縁あって昨秋に再入会となりました。

今、社会復帰2 7年となりました。修行生2 3名己一人裏山のほったて小屋に立てこもり、真冬の白崎海岸。暖房一切無しの午前1時、目覚まし時計なしでガバッと起き上がり、真っ暗な食堂で、一人座禅。出てくる思いは「寒い」暖房一切無しで、出てくる自責の念は『あほちゃうか』プロの坊さんでもないのにド素人の己が。しかし、それ以上に『己のやっている修行はプロの坊さんもまねできん』と傲ごうまん慢な己は傲慢な修行となり、己を奮い立たせた。午前3時より真冬の白崎海岸、山道を外灯なしの山道を己の肉体と精神を追い込み追い詰め出てくる思いは『寒い、あほちゃうか』修行生22名は、布団に入って寝てるんやで、と己の傲慢なアル中を振るい立たせた。一日の修行が終わり裏山のほったて小屋へ一人18時30分睡眠。布団に入れば、ものの2分で熟睡。体が疲れ切っている為、翌午前1時目覚まし時計なしで、気合満点で起き上がり己の修行は『プロの坊さんもまねできん』と己を振るい立たせた7ヵ月間と15日でした。

大阪市断5 0周年出席も前回出席は25周年の中之島公会堂当時亡くなられました北断酒会の中島さんの印で、大阪市断酒会本部のゴム印でした。25年と4日、9129日目の出席。1/4世紀です。今回は四條畷より徒歩で5時間4分で着きました。25周年と50周年の出席印を並べて額縁に入れ、己へのオンリーワンの褒美としました。

『感謝の気持ち』東大阪断酒会 男性

私がアルコールを覚えたのは高校3年生の時です。当時中学を卒業して社会人になった友人が毎週土曜日になると誘いにきて、スナック遊びでした。最初は居酒屋へ行き、酔うと2軒目はスナック、というのがいつものパターンでした。そこで飲み友達が増え、カラオケを覚えました。その頃から度々ブラックアウトを起こしていました。土曜日だけならよかったのですが平日にも誘いにくるようになりました。二日酔いで高校へ行き、よく酒臭いと言われたのを覚えています。社会人になっても同じでした。会社でも飲み会が多く、私にとってアルコールは欠かせないものになりました。しばらくしてうつを発症し、アルコールとうつが原因で会社をよく休むようになりました。最初に勤めた会社を辞めたのもアルコールが原因でした。平成20年に専門クリニックにかかるまで部屋に閉じこもり酒を飲んでいました。

なんか飲み方がおかしいと思い、自分でインターネットで調べてひがし布施クリニックへ行きました。しかし、通院し始めてもなかなかアルコールを止めることが出来ませんでした。ちょこ飲みをし、最後には連続飲酒に入り、5回入退院を繰り返しました。金岡中央病院で2回、新生会病院で3回です。クリニックのデイケアでも7年間お世話になったにもかかわらず酒はとまりませんでした。

現在、断酒3年目になりますが、きっかけになったのは最後の入院前2ヵ月の連続飲酒でした。最初はちょっとだけと思ったビールが増えていき、部屋中飲んだ空き缶でいっぱいになり足の踏み場もなくなりました。夜中に鼻から血を出しながらコンビニにビールを買いに行ったとき、コンビニの店長が警察に電話をして警察官が部屋に来ました。根掘り葉掘り事情を聞かれ写真も撮られました。その時、とても恥ずかしい思いをしたのを思い出します。それでもアルコールを飲んでいました。そうこうしているうちに体がアルコールを受けつけなくなり、ちょうどクリニックから電話があり入院の予約を取ってもらいました。2日後、私の担当ワーカーが部屋まで迎えに来てくれました。2ヵ月間,風呂も入らず、歯も磨かず、歩けずトイレにも行けなかった汚い私に肩をかしてくれたのがそのワーカーでした。その時初めて申し訳ない気持ちと感謝の気持ちがわいてきました。これがアルコールを止めるひとつのきっかけです。もうひとつは、新生会病院入院中の担当看護師、主治医との出会いです。入院1ヵ月くらいは歩けず車椅子の生活でした。離脱症状が出たり、うつもひどくなりしんどかった私に合った薬を処方してくれました。そのおかげでだいぶん楽になりました。主治医には感謝の気持ちでいっぱいです。2ヵ月ほどして開放病棟に移りました。歩けるようになったのですがうつが完全におさまってない私に1日のスケジュールをたてるように指導してくれたのが担当看護師です。グラウンド10周するのが日課となり気分がとても楽になりました。約4ヵ月で退院が決まりましたが、その時には断酒という形で恩返ししていこうと決意できました。

現在は、クリニックに通院しながら就労継続支援B型事業所に通所し、社会復帰に向かって頑張っています。お世話になった人たちへの感謝の気持ちを忘れず酒のない人生を歩んでいきたいと思います。

『酒害体験談』河内長野市断酒会 男性

お酒が好きで、もともとお酒に強い体質に両親に産んでもらった私は、20歳になると10年間、先輩とまた仲間友人と、本当においしいお酒を飲んできました。

仕事帰りには必ず居酒屋で飲み、家に帰ると玄関には入らず、車から直接居酒屋へ行き、夜遅くまで、次の日の仕事のことも考えずに飲み続けました。しかし、30歳になったころ身体に異変がおこり朝目覚めても床から起きられない頭がボーッとして身体がだるく意欲がまったく出ないという状態になりました。医院にかかるとこれは明らかにうつ病だと診断されました。

それから30年にわたる私のうつ病との戦いが始まりました。

仕事に行けない日が続きました。行かないと同僚に迷惑をかけ、教えている子供たちに対しても申し訳ないと、どんどん追いつめられてきました。その苦しさから逃れるために私が選んだのが好きなお酒でした。学校を休むと、その罪悪感から逃れるために朝からお酒を飲みました。でも、心は穏やかにはなりません。どんどん飲み続けました。そんな日が休みのたびに続きました。

その間私の身体は悲鳴をあげつつありました。血液検査で肝数値が異常な値を示し、急性肝炎で40日間入院したこともありました。しかし内科のお医者さんはアルコールのことには一切ふれませんでした。それを良いことに退院すると同じように飲み続けました。又肝数値も悪くなり血圧も上がり、高脂血症、ひどい不整脈でしたが、それでもお酒が欲しくてたまりませんでした。

退職後は朝から晩まで飲みました。朝5時になると妻の様子をうかがいながら、そっと床を抜け出し、玄関は音がしないように静かに出て、近くのコンビニで酒を買い、二階の自分の部屋でごくごくと飲む。昼は妻が出勤するのを見て又コンビニへふらふらと、時にはころび、時には四つん這いになって、這いながらただ酒を飲みたい一心で向かいました。お酒は飲めるのですが、食欲は全く起こりません。妻には内緒のつもりで飲んでいたので、夕食だけでも食べないとばれてしまうと思って無理をすると吐いてしまいました。妻も当然気づいていたのだろうと思います。そんな生活を続けていくと私の小遣いもすぐ底をつきます。でも何とかお酒が欲しいと、生活費にも手をつけました。3人の子供たちのお金にも手を付けました。財布からお金をぬきました。でもある日どうしてもお金がない時、子供の1円貯金に手を付けました。酔った頭で1円を220枚、手に握りしめて酒屋へ行き、ワンカップを一つ買い、店を出るとすぐ飲みました。今から考えると、なんとみじめな自分だったなと思われてなりません。酒の地獄にはまり込んでしまっていました。その時も苦しいうつ病は良くなっていませんでした。そんな生活に耐えられなかった家族は、私に病院に入院・治療して、元のお父さんに戻ってほしいと泣きつきました。私も自分に限界を感じていましたし、このままでは家族が崩壊してしまうと思い、それだけは避けなくてはと入院を受け入れました。そして一昨年の8月21日入院、一クール3ヵ月を病院ですごしました.。その間アルコール依存症の勉強、今までの自分に対する反省と、これからの自分には困難なことかもしれないけれど、生涯断酒を続けることを決意し、11月16日退院しました。

それから2年近く完全に酒をやめています。その為には、地元の断酒会例会に参加、新生会病院の火曜・金曜日の院内例会にも休まず、いろんな勉強会研修会にも積極的に参加活動しています。

この第二の人生を充実したものに出来ればよいと思います。今現在は、うつ病も癒され、とても充実した生きがいのある毎日を送っています。

『私と家内と断酒会』堺市金岡断酒会 男性

私の家内は登志と申しますが、私は登志さんと呼んでいます、先日の会話を少し紹介させていただきます。(登志さん、もう6時やから断酒会に行ってくるわ)(あーた、今日はどこ行くの)(今日は金曜日やから、金岡断酒会に行ってくるわ)(毎日よーやるねー)(おかげさんで、朝はようから仕事して、夕方には断酒会にも行けるし、体も調子えーわー)登志さん日く、(だれのお陰でそんなに元気になったんでしょうね)これ以上、私は何も言えません。

中小企業の親方の私ですが、1年半前は、経営の立場からくるストレスで、連続飲酒、暴言、家の中であばれては卓ちゃぶだい袱台返しをするは、さらに我が娘が警察に電話するは、また酔った勢いで我が息子と喧嘩をする。出張先では、大量飲酒によるブラックアウトで高額請求されるは、本当にいろいろな事がありました。見るに見かねた登志さんと我が娘は、堺市北区の保健センターに相談を持ちかけその結果、金岡中央病院を紹介していただきました。

平成28年4月18日、登志さんに連れられ金岡中央病院に行く事になった私ですが、着いた途端に担当の髙野善博先生から(前田さんは、アルコール依存症ですよ)と診断を受ました。なんの用意もしていませんでしたが、その場で入院の手続きが始まり、その日から入院生活が始まりました。

私の人生で3度目の入院です。過去の2回は鼠径ヘルニアでした。入院直後は、手の震え、睡眠中の心臓の動悸、寝汗などの約10日の闘いで、やっと離脱症状から解放されました。

同年5月の半ばに髙野先生から(前田さん、そろそろ断酒会に行ってみたらどうですか)とご指導を受け、髙野先生に金岡断酒会の森田会長宛に紹介状を書いて頂き、断酒会に参加する事となりました。その後、同年7月18日病院を退院し、そして同時に、私の断酒会回りが始じまったのですが、日が経つにつれ、次第に先輩や仲間が増えている事を、実感することができました。

お酒を止めて、約1年数ヵ月になろうとしていますが、私にはまだ飲酒欲求があります。朝起きて東向きの小さな窓を開けて、今日一日一生懸命仕事をして断酒会に参加した後、お酒を飲んだらどんだけ美う味まいやろうと考えるのですが、その時点で一日断酒のスイッチをいれます。(今日だけ飲まんとこう、飲むのは一晩寝て明日にしょう)と心のなかで叫ぶのです。

昨年までの私は、今日まで飲もう、止めるのは明日にしようの明日から断酒でしたので止められるわけがありません、登志さんに言ったものでした。(あと5百円ください。これで止めます。明日から飲みません)今から思うと恥ずかしい事でした。

私には、これから半年1年と絶対に断酒をする約束はできません。何せ人間ですから、38年間飲み続けていたのですから、しかし一日断酒と云う言葉が心の中の霞の中からやっと見えて来た様な気がする今日この頃です。、飲んでしまうと元の木阿弥に成ってしまうことは充分認識しています。

私は最近、中国語のレッスンを始めました。日々の積み重ねは一日断酒と同じだと考えます。

今日からも金岡断酒会と堺連合の一員として精進して参ります。

『断酒が続いて思うこと』泉佐野市断酒会 男性

子供の頃から、なぜだか知らないけど生きづらい。なんでこんなに身内の顔色をうかがって生きなくてはならないんだろう? 家族団らんの中で、お笑い番組を見ていてもなぜかしらついつい両親の顔色を伺っては、「この人たち本気で笑い転げているのかな、本気で楽しいのかな?」そんな子供時代でした。

やがて高校を卒業するも私には、将来何に成りたいというビジョンもないまま、進学をあきらめ、父親に「仕事に就きたい」と言い、父親の仕事の関連会社に就職をしました。

しかし自分にとって職場の人間関係は難しく、上手に生きられないもどかしさを解消するアイテムが酒でした。父は6人兄弟の長男で、親類縁者と言えば大酒飲みの多い家系で、私自身も小さい子供の頃から、しっかりと酒に親しむ自分に成っていきました。

20代を、フリーターをして、金がたまるとバイクに寝袋など生活道具を積み込んでふらりと日本中を旅してまわる。その日暮らしの連続。そんな生き方もやがて終わりが来て、警察とトラブルを起こして裁判ざたに成り、父に散々な迷惑をかけてしまいました。最後まで裁判に付き合ってくれた父への感謝と反省から真人間に成ろうと職に就き、縁あってある女性と結婚出来て、子供も2人授かることができました。

友人との飲み会を終わって帰ってきても悪口とも嫉妬とも言えん愚痴を言っては散々女房にいやな思いをさせてしまいました。飲んだら子供より子供っぽい、やたらハイテンションになっては家族に呆れられる事もたびたびありました。

運命が変わったのは「2000年・9月・工場閉鎖・従業員全員解雇」が決まってからです。同僚たちは早々に転職先を決めて職場を去っていき、私は自分の能力の程も知らず、自分からしたらレベルの高い職場ばかりを転々とする様な事を繰り返して行きました。そこへ、それまでいろんな面で我が家を支援してくれた妻の実家と酒の上で喧嘩をしてしまい、結果我が家は生活に困窮するような有り様に成りました。一番の被害者は子供たちでした。学費も払えず、学校に持っていく文房具や衣服までクラスメートに譲ってもらうようになりました。そんな状態でも酒を飲むためだったらどんな手段も使いました。子供の貯金箱を底を抜いてワンカップを買いに行く、酒だけでなく睡眠薬も併用する、全ては辛い現実から逃れるための手段でした。そして勢いで離婚をし、家族は去って行きました。一人ぼっちの自分が考えたことは悲しさよりも、「これで又酒が飲める。今度は誰に責められることなく好きなだけ酒が飲める」ただそれだけでした。

食事を取らず酒ばかり飲む習慣に成りました。あっという間に連続飲酒が始まり、アルコールの切れ目が嫌で町内を24時間酒を求めてグルグルとサーキットするようになりました。年末には黄だんが出て顔は真黄色、足元はふら付き、言葉はろれつが回らなくなり、正にアル中そのものでした。

やっとのことで専門病院にたどり着きましたが、結局3度の入退院を繰り返し今に至っています。

アルコールを断酒会の仲間に止めて頂いているこの数年の間、肉親を2人なくし、老いた母親をようやく説得して老人ホームに入所させることができ、おかげさまで飲酒欲求に駆られることなく日々無事に過ごさせて頂いています。生涯断酒はまだまだ先のことになりますが頑張りたいと思います。

『私の酒害体験』大阪市東成断酒会 男性

私は平成13年7月9日にクリニックに母と姉の3人でいきましたクリニックのスタッフが笑顔で出迎えて下さったのが今も印象に残っています。

最初来るときアルコール専門の外来と聞いていたので、酔っ払いがわめき散らして恐ろしいところかなと思ってましたが、全然そんなところでは無かった。普通の病院とか医院と変わらなかった、皆おとなしく和やかに仲良く話しておられる方も居て、雰囲気も良い所だと、安心しました。診察で両手を広げて1枚の紙を手のひらに置かれて、脳が震えてると言われたそれが初診だった。それから毎日通院、抗酒剤、点滴、院内プログラム、自助グループ等の参加、その結果あんなに止まらなかった酒が止まった。不思議と言うか酒を飲むのが止まってる。

私は平成7年44歳の時妻と別れてからもうどうでもいいやと7月に会社を辞めて、退職金と失業保険で、酒飲み生活に成って行った。翌年8月4日、栄養失調、黄だん、腹水で南港病院へ入院1月半で良くなり主治医の先生から二度と酒はのまない様に、それと肉体労働は止めなさいと言われた、肉体労働をするとつい酒に走ってしまうからだ。

このまま飲みつづけると肝硬変、肝臓がんに成ってしまうと言われたが酒の魔力に負けて6月の暑い日にビールを飲んで又酒飲み生活、2ヵ月も持たない、もう働こうとする気力を無くしていた自分が有った退職金で生活をつないでいたが、お金も底をつき働き始めるが2ヵ月と持たない、酒を手放せない自分が居るから働けない、家のローンが払えず、家と土地を差し押さえられる前に手放し、東成で一人で住んでる母の元に救いを求めるように引っ越し酒の為に家も土地も金も無くなり天国から地獄だった。

でもこれで終わりでは無かった、今までよりももっと酷い状態がやってくるのだった、母の元で心機一転して母の知り合いの紹介で働く、でも酒は止まらかった。家では何時も隠れのみ仕事は4日行っては3日休みだったので休みの日は酒を飲んでは寝るという生活。仕事に行った日は時々夜中にこむら返りになり、寝られず恐ろしくなる事もしばしば有り酒で体が蝕まれていくのが分かりつつ酒は止められなかった。平成12年4月23日仕事が休みの日、朝1杯の酎ハイを飲んだらゲボゲボと血を吐き止まらず救急車で日赤へ。

胃静脈瘤破裂、脾臓摘出、肋骨に沿って山のように切開し6時間余りの大手術7対3でダメかもしれない、良くて5分5分後は本人の生命力次第、助かっても脳がやられてるかもしれないから覚悟して下さいと医師から言われたそうだった、でも幸い手術は成功し脳にも異常は無かった、10日間ぐらい飲まず食わずで体はチューブだらけ半月ぐらいで夜寝るときになったら痛みとの戦いだった、これで二度とは酒はのめない、いや絶対止めようと固く誓う。でも又してもダメだった。

仕事に復帰したが酒は止まらかった。8月の暑い日凄く飲酒要求が出てきて、負けてしまった、完全に酒にコントロールされてしまった、この一杯飲んだら自分は変に成って死んでしまうかと思いつつ、こわごわたまらず飲んでしまった、でも何とか成った飲んでも大丈夫やと心に出てきた。それから又元の酒人生、母ともよくケンカした、そののたびに公園や神社、ビジネスホテルへ泊まってズーッと酒を飲む。平成13年4月頃から仕事に行かなくなり、1日中寝ても覚めても飲みつづけ止めようと思っても止めれなかった、連続飲酒とブラックアウトによくなり体は生傷が絶えなかった、お金は無いし母の財布から盗み取りして酒を飲んでしまう。もうどうにもならなかった、この先死ぬまで飲み続けるのか、狂ってしまうまで飲みつづける瀬戸際にクリニックに繋がった。

東布施クリニックに通院し始めて16年東成断酒会に繋がって15年今まで一滴も飲まずに来れました。大阪市断酒連合会50周年そんな中7月に断酒15年の表彰を頂き、良く生きて来れたなと思うのが実感です、これも東布施クリニックの辻本先生スタッフの皆さん、断酒会の仲間の皆さんの温かい支えがあったからと思います感謝いたします。

断酒のおかげで、亡き母の介護も出来、亡くなった時は見送ることも出来ました。おかげで母親も安心して天国に行ったと思います。

今日1日を生きこの今を楽しむ生きる喜び。